ベルゴンツィさんから直接聞いたお話です。ベルゴンツィは1948年にバリトンとしてデビューして、しばらくはカンタンテなバリトンとして『セヴィリアの理髪師』のフィガロを歌ってタリアヴィ-ニのアルマヴィ-ヴァ伯爵と共演するなど活躍していましたが、自分の声にバリトンとしての深みが足りないと自覚していました。ある日発声練習をしていると、楽にハイCが出るのに気付きました。そしてテノールに転向することを決め、イタリアのバリにあるペトルッツェリ歌劇場でチレアの『アドリア-ナ・ルクヴル-ル』をマグダ・オリヴェロと歌う予定でしたが、稽古でオリヴェロとベルゴンツィがとても仲良くしていることに嫉妬したオリヴェロのご主人のせいで、オリヴェロが降りてしまいました。それで急遽演目をジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』に変更してベルゴンツィはテノール転向を大成功のうちに果たしました。ラッキーだったのは、この時客席にヴェルディ没後50周年記念公演で歌うテノールを探していた指揮者のカルロ・マリア・ジュリーニがいたことです。ジュリーニはベルゴンツィを『二人のフォスカリ』に起用してベルゴンツィはヴェルディアン・テノールとしてブレイクしたのでした。ヴェルディの故郷ブッセ-トにはベルゴンツィ家所有のホテル兼レストラン『二人のフォスカリ』があります。これはベルゴンツィのヴェルディ作品デビューに因んで名付けられたものです。
カルロ・ベルゴンツィのバリトンからテノールへの転向

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